一種の知的活動ではあるのだが、どうもサイエンスとは異質の作業であるらしい
とっても面白い本を読みました。
プレートテクトニクスの拒絶と受容—戦後日本の地球科学史(泊 次郎)
プレートテクトニクスといえば、クーンの言う「パラダイムシフト」の実例として良く挙げられますが、実際の科学の世界はいろいろと複雑なことが起こるらしいですよ。
1960年代後半に登場したプレートテクトニクス理論は、欧米では70年代初めには地球科学の支配的なパラダイムとなった。日本においても、地震学屋さんや地球物理学屋さん達は、この理論を抵抗無しにあっさりと受けれることができた。しかし、日本の地質学会だけは、旧態依然で超ローカルな学問を守ることに必死で、80年代に入ってもプレートテクトニクス理論を受け入れることができなかった。わずか数十年前の先進国のメジャーな学会で、なぜこんな異常な事態が起きたのだろうか? ……を解明した本。
第三者として今から振り返れば、たしかに当時の地質学会の科学者らしからぬ態度は、非合理きわまりなく感じる。しかし、著者はそれを一方的に批判するわけではない。当人達にとっては極めて合理的な理由があったことを明らかにすることで、サイエンスといえども人間の営みの一部であると結論づけているわけだ。
それはともかく。
全体が興味深い内容ばかりで、一気に読めてしまうのだが、中でも膝を打った(年寄り臭い表現ですが、本当に膝をうった)のが、ここ。
PT(プレートテクトニクス)をいち早く取り入れた地球物理学者が、人文学的な理由からPTを徹底的に拒絶している地質学会(地団硏)との間の、科学者としての「通訳不可能性」を実感している箇所。
PTを日本にいち早く紹介し、反対派との討論会にもしばしば参加した地球物理学者の上田誠也は「正直のところ、〔地団研の先端的研究者の諸説は〕大抵はなにをいっているのかわからなかった。そういうときは謙虚にどうも私にその『哲学』がわからないのだろうとおもったこともある。(しかし、後年になると、地団硏のかたがたのやっていることは一種の知的活動ではあるらしいが、どうもサイエンスとは異質の作業であるらしいと思うようになった)」と回願している。(186ページ)
そうそう。「パラダイム」の概念とは違うかもしれないけど、「一種の知的活動ではあるらしいが、どうもサイエンスとは異質の作業であるらしい」と思う事って、良くあります。
僕が、池田清彦の本(構造主義と進化論)を読んだとき、強烈に感じたアレと、たぶん同じだろう。
もう少し弱いけど、福岡伸一のベストセラー(生物と無生物のあいだ)を読んで少しだけ感じた、アレだ。
茂木健一郎にも感じるけど、彼はわざとやってるのかもしれないなぁ。
ともかく、トンデモやニセ科学とは違う、でも現場の多くの科学者とは決定的な通訳不可能性のある、自然科学のようで自然科学でないような曖昧な分野、しかしなぜか人文科学者や文化人からは人気がある分野って、実際あるんだよね。
で、人文分野としてそんな思想があっても全然よいのだけど、なぜかこーゆーのに限って、世間では自然科学(理科)として扱われがちなのは、理科教育の面から見て困ったもんだと思う。
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