倫理学という学問
ただの愚痴です。
普通の社会人として働いてきた人が、倫理学をちょっと勉強し始めると、すごい期待してしまうわけです。
こりゃすごい学問だ。技術屋としてどうすれば世の中のためになれるのか、教えてくれるかもしれないぞ。いや、もしかしたら、人間の生き方についてだって、なにか答えがもらえるかもしれないぞ。
……でも、すぐにがっかりしてしまいます。
倫理学は、結局はなにも答えをくれません。ある原則を、最後の最後まで突き詰めて考えて、本当にその原則が正しいのかを判断するとき、結局は「その原則に基づいて行動すれば、ある事例について、リーズナブルに行動できるかどうか」が基準となってしまいます。で、リーズナブルってなに?
まぁ、ある学問が実生活で役に立たないなんてことは、倫理学に限らず、理系でも文系でもあらゆる学問でよくあることかもしれません。
でも、例えば応用倫理、特に情報関連の倫理とか医療関連の倫理とかで、最新の技術や現場の苦労をまったく知らない倫理学の専門家が、素人からみて当たり前のつまらない意見、そしてプロから見れば時代遅れとしか思えない意見をうだうだ書いているを読むと、ちょっと失望してしまうわけです。
こーゆー理系の人間って、僕だけなのかなぁ。……てなわけで、ふと思いついたのですが。
生物学者であるギャレット・ハーディンが、地球環境に関する倫理について、「コモンズの悲劇」とか「救命ボートの倫理」とか、徹底的に利他主義を排除した、途上国に対して冷淡な考えを提出しています。これは、純粋な生物学的(行動生態学的)な発想をもとにした、ある意味非人道的な倫理なんですが、別に彼自身も自分の倫理を本当に正しいと考えているわけではなくて、単に既存の倫理学に対しての現場の科学者からの挑戦なんじゃないかなぁ、なんてね。
つまり、行動生態学のプロの立場から、倫理学者達に向けて
「ほれ、これが科学者が解明してきた世の中の真実の姿だ。倫理学者達はお得意の思想で反論してみな」
と茶化しているだけの、一種の釣りなんじゃないかと。基本的な発想はソーカルと同じなんじゃないか。……なんて思ってしまう、今日この頃。
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