(日本語のおかしなところを修正しました。もともと思いつきを勢いで書いたものなので、論理的でないのはどうしようもないのですが、改めてそのうち書き直しますということで、ご勘弁を。 2008/08/05)
全然まとまっていませし、時間がないので全く推敲もしてませんが、単なる素人の思いつきの羅列をダラダラと書いてみます。自分用のメモということで。
例えば、普通にみんなが食べているあの遺伝子組み換え作物には、健康に対するリスクが無いとは言い切れないんじゃないか……と、一部の人たちが言い出したと仮定しましょう。
しかし、本当に危険なのか? どれくらい危険なのか? 食糧不足と健康のリスクを天秤にかけてもなお危険だといえるのか? などの疑問を「科学的」に判断するのは、とても難しい事がよくあります。倫理の問題がからむ場合は、なおさら。
というか、そもそもなにが科学的に正しいのか、言い換えれば「科学的とは」、なんて問いに対する答えは、哲学的にもひとつではありません。
で、誰が見ても明らかにリスクの方が大きい場合でなければ、一部の人が言い出した程度では、普通は政府は調査には動き出しません。
さて、「科学ってなに?」という問題は、科学哲学屋さんや社会学の人たちが考えてくれていますが、ここではいろいろな立場を乱暴に一直線に並べてみます。
一方の極に、世間や政治から中立な正しい科学が存在するという立場。(ポパーとか)。その正しい科学ってどんな科学なの、という問題はひとまずおいておきます。
もう一方の極に、正しい科学なんて存在しない、何が合理的なのかはすべては社会的に決まるのだ、という極端な相対主義的な立場。(一部の社会学の人たちとか)
その中間に、科学といえども歴史的・社会的な要素を含むけれども、最終的には合理的な営みに違いないという信念の立場。(クーンとかラウダンとか)
さて、どこの国でも同じですが、政府というものは、上にあげた3つの立場の中では中間の立場をとる場合が多いです。(シュレーダフレチェットさんによると、ラウダン的な立場だそうです)
どんな国の政府にしても、今の世の中、科学の合理性を完全に否定する立場に立つのは、まぁ難しいのも当然でしょう。そして、すべての政治を科学だけで決めるわけにはいかないのも、当然かもしれません。
で、この立場に立つと、科学的な絶対的な正しさというものがあるわけではなくなります。何が科学的に正しくて、何が正しくないかは、ある程度社会的に決められるという立場です。すなわち、絶対的に正しい理論を求める事ができればもちろんそれがいいのですが、たとえそれができなくても、現に存在する仮説や理論や信念の中から信頼のおけるものを選択すればいいことになります。
上で挙げた遺伝子組み換え食物の例の場合、普通にみんなが食べている食物なのですから、一応世間では安全だと認められているわけです。これに対して、一部の人々が主張する危険については、検証も証明もされてはいません。
言い換えると、安全か、安全ではないか、のふたつの仮説が存在する中で、前者の仮説は世間一般で信頼されているが、安全ではないとする後者の仮説は(一部の人の主張以外では)信頼されていないわけです。そんで、政府の立場は、神の視点から判断するような、科学的に絶対的な判断基準はないという立場ですから、現に存在するこのどちらかの仮説の中から正しそうな方を選択しなきゃならない。
当然、安全ではないとする仮説については社会的な信頼がなく、逆に安全であるとする仮説は社会的に信頼されているわけで、こちらの方が正しいと結論づけられるわけです。
しかし、政府によるこの論法は、確かに一貫しているのですが、落とし穴があります。
そもそも、安全ではないとする仮説については、具体的な研究がなされていません。政府は、都合の悪いことについては、あえて研究にとりかからないことで、不利な結果を出さないようにしているわけです。証拠が無いことを、無いことの証拠としているのです。
つまり、このような政府の立場に立つと、あるリスクについて研究するかどうかの価値判断の段階で、問題が生じる場合があるわけです。この問題を解決するためには、どんなに政府に都合が悪いことであっても、政府による勝手な価値判断がなされる前に中立的な科学的研究をして、結果を市民に報告した上で、リスクをどう扱うのかは民主主義の手続きで判断するべきだ……と、市民運動家などはよく言います。たしかに、これぞ民主主義の正しいあり方なのかもしれません。
でも、この一見正しい民主主義の論法にも、大きな落とし穴があります。
研究に投入可能な資源の問題。些細なリスクに対するアセスメントは確かに重要ですが、使えるお金も研究者も限られているわけで、すべての事に対して「科学的に正しい答え」を追求することは現実的に不可能です。どこかで取捨選択が必要であり、その価値判断を誰かが政治的な決断を行わなくはなりません(あるいは、研究対象は科学者の好みで決まることも多いでしょう)。この立場の人は、この問題にどうやって答えるのでしょう?
さらに
上で、「科学ってなに?」という問題に対して、3つの立場があるというお話しをしました。政府の立場は「中間的」な立場です。で、政府のやり方を批判して、民主主義の正しいあり方を求める市民運動家は、「価値中立な科学が存在する」という立場ですね。
しかし、政府のやり方を批判する場合、もうひとつの方法があるのです。「正しい科学なんて存在しない、何が合理的なのかはすべては社会的に決まるのだ」という立場からも、政府を批判できるわけです。科学者になんかまかせないで、政治家の決断とか投票とかでさっさ決めてしまえ、という立場ですね。
問題は、この相対主義的な立場は、きちんとした哲学や社会学とは関係ない、所謂トンデモやニセ科学の連中にも利用されやすいという点です。「正しい科学なんてそもそも存在しない」という主張が「科学が合理的で正しいとは限らない。俺のいうことの方が正しくてもおかしくない」にすり替えられてしまうのです。
ラウダン的な政府の立場は、なんだかんだいっても科学の合理性をみとめているので、価値判断の手続きの中である程度はニセ科学を排除できているのですが、別の立場にたつとそれが難しくなるんですな。
で、正しい市民活動家の「どうして価値中立な立場で研究をしないんだ?」と、ニセ科学屋さんの「科学者なんて信用できない」って、一見、似ているんですよね。
具体的に、上で挙げた遺伝子組み換え食物のお話しの例で考えると、
正しい市民運動家の立場
「安全性について未知の部分が多い。どんなにお金がかかっても、正しい答えを見つけるべき」
トンデモの立場
「今の科学が正しいとは限らない。遺伝子組み換えが安全なわけがないという、私の感覚の方が正しくてもおかしくない。即全面禁止にすべき。」
政府の立場
「現状で、なにも問題はでてないでしょ?」
……もし政府がおかしいという前提にたつ人が、この三者の立場を並べてみれば、市民運動家とトンデモの区別は難しいかもしれないなぁ。
てなわけで、結論というかなんというか。
本来は、正しい市民運動家の立場って、トンデモとは対極にある立場のはずなんです。「価値中立で科学的に正しい答えが存在するはず」vs「既存の科学なんて信用できない」なんですから。
それを、まず「政府憎し」の感情からスタートしてしまうから、進む方向が逆になって、トンデモに取り込まれてしまう。
ダラダラ書いてきましたが、要は、リスクについて考えるとき、自分がどの立場なのか、常に考えて行動しないと、わけがわからなくなるよ、というお話しでした。
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